母がつないでくれたもの

結婚相談所 東京 20代 30代 ブログタイトル20190327

こんにちは。ブログをご覧いただきありがとうございます。
結婚相談所 東京 / 渋谷 パールウエディングのカウンセラー佐橋です。

少々湿っぽいお話になりますが、どうかお許しください。今月初めに私の母が亡くなりました。

結婚相談所 東京 渋谷 20代 30代 土砂降り

その日の夜遅くになって離れた場所で暮らす私のもとに唐突に届いた電話の知らせは、母の状態が急変して病院に搬送したが手当を施す間もなく亡くなった、というものでした。

何か現実味のないフワッとした感覚の中、既に息を引き取った状態の母に会いに行くために、どうするのか?

もう新幹線は間に合わない、外は警報が出ているようなひどい大雨の為、車に乗って深夜に長距離を走り切るには危険すぎる状況で、止むを得ずその日の移動は断念して翌日に向うことにしました。

日が変わり、激しい雨模様も幾分やわらいできたことから、家族の事情もあり高速道路を使って自家用車で向かうことになりました。準備を整え、はやる気持ちを抑えながらの出発です。

きっと午後のほどほどの時間には母に会えるだろう・・・

振り返ってみると、その時は冷静な判断力を欠いていたのだと思います。

結婚相談所 東京 渋谷 20代 30代 暗い高速道路

どんよりとした空から雨粒が時に強く、時に弱く降る高速道路で車を走らせ、一刻も早く母に会いたいとはやる気持ちが、少しでも近くに近くに、前に前にと私を進ませます。事故だけは起こさぬようにと、ワイパーが一定間隔で動き続けるフロントガラス越しの視界に注意を払うのに精いっぱいです。後は本当にほんのわずかでも早く辿り着きたい・・

けれども物事は思うようには進まなかったのです。

後になって知ったのですが、その日は大きな報道となった熱海での土砂災害が起きた日で多くの方々が被害にあわれました。そして熱海だけでなく近辺の地域一体にも激しい雨が襲い、土砂くずれなどの影響もあり高速道路が広範囲に通行止めとなっていたのです。

長年の経験上、この高速道路については大雪でもない限りは通行止めなどあるはずがないと高を括っていた私は面食らいます。気付いた時は、もう引き返すにはあまりにもったいないと思えるほどの距離を走った後です。

それでも冷静になって大局的に考えて、東京方面に引き返して別の高速道路を使って大きく大きく迂回していけば、目的地へはもう少しまともな時間に到着できたのに、そうはしませんでした。

結果として前に進むだけ進んで、途中で分断された高速道路を降りるしかなく、山道の迂回路を進みます。流通を担い、しかたなく運転を続けざるを得ない事情の大型トラックたちに挟まれて渋滞する道で、横を見れば増水した川が轟音を響かせながら氾濫しています。そして焦りが最高潮の私をあざ笑うかのように、やがてその迂回路にも通行止めが発生します。しかたなくそのまた迂回路を通ってのろのろ、のろのろ動きます。いったいこれからどれだけの時間が掛かるのか想像もつきません。途方に暮れるとはまさにこのこと・・

母の息を引き取る場にも立ち会えず、こんなにも会いに行くまで時間の掛かる自分の親不孝ぶりに強い自己嫌悪を覚えます。

亡くなった翌日にさえ母の顔を見ることができないのか・・

結婚相談所 東京 渋谷 20代 30代 雨中の運転席

誰を恨むこともできません。自分が招いたことです。

失意と落胆。投げ出すことができない状況で無表情で淡々と運転を続ける私。心の中はそれとは対照的に、土砂降りの雨に、これでもか、これでもかと打ちのめされ、どうしようもなくやりきれない気持ちでずぶ濡れになっているかのようです。

( ごめんね・・ )

ただ、ただ、浮かび上がってくるのは母への謝罪の言葉です。何も大した親孝行がしてあげられなかった・・母から受けた大きな大きな恩義に対して、私が報いることができたことがあまりにも小さく感じて、もっともっと何かできたのではないかとの後悔。それなのに・・駆けつけることさえままならない今の自分。そんな求めているものと現実とのギャップが私を声にもならない声で謝らせます。

( ごめん・・ ・・ ごめんね・・ )

じりじりとしか動かない道路状況で、落胆と共に低速運転が続きます。永久に母の下にたどり着くことは不可能ではないかとも思える長い長い時間です。そして着実に日は沈んでいきます。

結婚相談所 東京 渋谷 20代 30代 山の夕暮れ

その後、夕方暗くなってきた頃にやっとのことで山道を抜け大きな国道にたどり着きました。まだ距離にすれば3分の1も走っていません。

けれども国道の車の流れはそれなりに速いようです。わずかながらも一筋の光明が見えてきました。

その国道を一時間ほどひた走ると、分断されていた高速道路の入り口についにたどり着きます。我慢強く継続することは大切ですね。そのころにはすっかり日が落ちていましたが。

さて高速道路の状況はというと・・・幸いにして行く手をはばむ通行止めはもうないようです。そして特に渋滞情報も入ってこない。後は慌てて事故を起こさぬこと、速度違反で捕まってこれ以上の時間を費やさぬことに、残された集中力を振り絞り、控えめなライトで照らされた闇の中をひたすら突き進みます。

そして到着の目途が立ったところで、電話で葬儀業者さんにお願いをして、ご厚意で真夜中に遺体の安置場所に入る許可をいただくことできました。

ああ、良かった。

数時間後に高速道路を降り、ようやく現地に到着します。すると建物がいくつもあり、さてどこにいけば良いのかと最初は迷いました。しかし少し奥のエリアに目をやると真夜中にこうこうと浮かび上がる「佐橋家」という電光掲示板の表示がある場所が!・・葬儀業者さんのお気遣いが胸にしみます。

建物の中に入ると白木の棺が・・

「来たよ・・ごめんね・・」

到着が遅くなった私に対して、母が小言など言わないのは以前と同じです。ただ

「大変だったね」

と生前だったらかけてくれたであろう優しい言葉が返ってくることも今はもうありません。それでも母に会えただけでも、それだけで胸はいっぱいです。

静かに横たわる母のほほをそっと手のひらで包むと、冷たい感触が伝わってきて、もう戻ることができない現実を思い知らされます。

母との子供のころの思い出が駆け巡ります。優しく、私のことを守ろうとしてくれた母でした。

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「ごめんね・・ありがとう・・・ ごめんね・・ありがとう・・

繰り返しながら、抑えていた感情が溢れるように胸の奥からこみ上げてきます。

もう母はそこにいないのかもしれません。それでも、ここにいるのは抜け殻かもしれないけれど、それでも抜け殻でさえ愛おしいのです。

棺の中で静かに眠る母の顔を見て、ふと祖母のことを思い出しました。私がこうやって人の冷たいほほに手をそえるのは長生きをしてくれた祖母の時以来だったということもあったからでしょう。二人はとてもよく似ています。

祖母は戦争で夫(すなわち私の祖父)を亡くし、苦労しながら母を含む子を育てました。そして孫である私も可愛がってくれ、国からの遺族年金などもあり、長生きをして母を通して私の学費の援助などもしてくれました。

思い出される棺に横たわる祖母の顔、祖母によく似た目前にいる母の顔、そして母を見る私、

祖母・母・自分

その時、この三世代の順を追った流れが、鮮明に浮かび上がってきました。

そして母は母の役割分担を、祖母と私の間に入って「つなぎ役」を果たしてくれたのだ、という思いが頭によぎりました。

「・・ ありがとう・・・ 」

母への感謝の気持ちと共に、母がしてくれたように私自身も次の世代、その先の世代に向けて、立派な「つなぎ役」にならなければならない、役割を果たさなくてはならない、という思いをその時強めました。祖母もまた、そうであったように。

命を与え、育んでくれた母に生きているうちに十分満足な恩返しができなかった。祖母に対してもそうです。それ自体は悔やまれることです。

けれども今はもうそれを言っても仕方がない。後はこれから私ができることをできるだけするしかない。私の役割分担を果たすことに意識を向け、力を注ごうと思います。

それは周囲を取り巻く人たち、環境からいただいた恩恵を考えると、自分の子供だけを育てるという狭い話だけではないように思えます。自ら直接的な「つなぎ役」になる貢献の方法もあれば、他の方に「つなぎ役」を担っていただけるようサポートしたり、環境作りをするのも貢献になるのでしょう。

そういった意味では結婚相談所で幸せな結婚を増やすという現在の仕事は、私の中ではしっかりと整合性がとれていて良かったです。

この仕事でも、他の取り組みでも、完全なるボランティアでも、何かしらの形で後に続く世代の方々に少しでも良いものを引き継いでいけるように生きていきたいなと思います。

母との良い時間を過ごすことができました。寂しさがすぐに消えることはありませんが、母が大切なものを改めて教えてくれたように感じます。

そして翌日、母は滞りなく火葬されました。

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あれからあっという間にもう半月以上が過ぎ、梅雨も明けて、どんよりした空も変わりました。さあしっかりと前を向いて生きていきたいと思います。

人はなぜ亡くなった人を思う時に空を見上げるのでしょうか?

その答えが最近わかるようなりました。

( ありがとう・・ 頑張るよ・・)